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新横浜の人口

10,000人突破の日を予測したページ作成しました.(2007/6)

※最新データで本ページを更新しました.(2007/10)


以下の情報は,
横浜市統計ポータルサイトなどのデータをExcelファイルにまとめなおし,
グラフ作成し,調査考察を加えたものです.


まずこの図は新横浜 一〜三丁目の人口推移を表している.
各年とも9月末日または10月1日の人口を採っている(最新2点は半年毎).
新横浜は,1975年,区画整理によって鳥山町・岸根町・篠原町・新羽町・大豆戸町の一部から誕生した.
寄せ集められた行政区分に,新幹線の駅から地名がつけられた珍しいケースである.
新横浜誕生以降しばらくは300〜500人程度で推移しており,
ラーメン博物館ができ,都筑区が分区した1994年頃においても,ほとんど人の住んでいない街であった.
少し前まで「新横浜に人なんて住んでいるの?」という印象があったが,これは当時は確かに正しかった.
しかしながら現在では8,642人(一丁目:4,997人/二丁目:1,551人/三丁目:2,094人)が居住している.
なにがきっかけで1995年から爆発的に人口が増加したのかは不明である.
2007年3月31日注記)1997年に土地利用に関する規制が緩和されたとのこと

まずは一旦,港北区全体に目を移す.


グラフのデータは緑区(現・緑区+青葉区)が分区した1969年の翌年からである.
(このグラフの下のほうはごちゃごちゃしているので無視されたい.)
分区直前時点で港北区は市内最大人口・最大面積を抱える巨区であったが,
緑区の人口膨張にともない行政区分を分区した.

1987年頃から,港北ニュータウンが開発され,現都筑区部分の人口が爆発的に増加した.
港北区の人口は再び市内最大となり,1994年に都筑区が分区される.
なお港北区はその後三たび人口最大区に返り咲いており,一部では2007年現在時点で,更なる分区の可能性が囁かれている.

スパンを変えて各町の人口データを見てみる.


まだ見にくいグラフであるが,このスパンだと如何に港北ニュータウンへの”入植”が爆発的であったかがよくわかる.
また,1995年以降の新横浜の人口増加も,その面積が小さいことを考えればなかなか凄まじいと言える.
新横浜一丁目〜三丁目の人口は1995年に278人→2007年9月末に8,642人,
増加率で言えばここ11年強で3100%,つまり30倍を超えている.

もう少し地域を絞って,周辺地域についても見てみる.

篠原町(旧篠原町は仲手原,篠原台町,篠原西町を含むのでまとめた)もこうしてみるとじわじわ人口が増えている.
(航空写真のページでは変わっていないと書いてしまったが...)
太尾町および樽町は,いわゆる「東横線」&「大倉山」ブランドであり,順調に人口が増えている.
一方,同じ東横沿線の菊名はすでに空き地が少なかったせいか伸びは小さい.
大豆戸町は,1978年からわずか2年間のみ驚異的な人口増加が起こっており,
不思議に思って(中古物件情報サイト等で)調べたところ,以下の様な大規模集合住宅の建設があったせいであることがわかる.

大倉山ハイム/1979年/総戸数約850
菊名ハイツ /1980年/総戸数 443

つまり「東横線」&「大倉山」ブランドのはしりであった.
世帯あたり人数が3人だったとして,約4,000人の増加の説明がつく.
このころから大倉山駅周辺かなりの広い地域にわたる物件に,「大倉山○○」
という名がつけられて販売されたようである.
ここ10年強では新横浜と地下鉄つながりの,新羽と北新横浜の人口増加も目立っている.
余談であるが,鳥山川以西,日産スタジアムや労災病院のあたりは,
地番が非常に複雑に入り組んでいる.
スタジアムは小机町であるが,ラポールは鳥山町で,労災病院および宿舎は,
小机町と鳥山町にまたがっている.
鳥山川の際には,驚くべきことに篠原町の飛び地が存在する.
大人の事情であろうか.

新横浜について,世帯数・1世帯あたりの人数を示す。

新横浜誕生から4年間は,世帯数がおかしい.行政または統計上の事情だろうか.
ともあれしばらくは世帯人数1.0〜1.4人で推移しており,
賃貸のワンルームマンションが数個あった程度ということではなかろうか.
1995年以降,世帯数増加とともに,世帯人数も上昇しているため,
分譲のファミリーマンション供給が急に始まったということのようである.
最大で500戸/年程度の増加であるから,マンション1個あたりの平均戸数が70戸程度だとすれば,
多い年は7,8個のマンションが新横浜一〜三丁目に建設されている計算になる.
平均世帯人数は95年から徐々に増加し,2001年に最大2.2人となったが,現在は再び減少している.
港北区の平均世帯は,計算上2.2人(2007年9月現在)であるが,
新横浜は現在1.78人と少ないため,あいかわらずワンルームの比率が高いか,
または若い夫婦世帯が比較的多いことが推測される.
平成12年の国政調査では,65歳以上の構成比率が港北区12%に対し,新横浜では3〜5%と際立って低く,
15歳以上64歳以下の比率は港北区74%に対し新横浜77〜81%と,際立って高い.

さてここまではあくまで「居住者人口」の話であったが,
街の規模を表す昼間人口についてはどうか.


この図は,2007年9月時点で新横浜駅を通る3つの路線について,
乗降客数の推移を示している.
残念ながら,開業当時(横浜線1908年/新幹線1964年/市営地下鉄1985年)
からのデータは見つけることができていないが,
港北区史には「昭和56年3月の乗車数450,709人/降車数452,753人」という記録はある.
ここから計算すると1981年では約3万人/日となる.
いずれにしろ,3(2)路線合計で,
1981年:3万人→1994年:17万人→2004年:21万人と増加していることがわかる.
この数字は,各線間の乗り換えのみの乗降客数も含まれていると考えられるため,
21万人/2=平均10万人強が毎日新横浜の街を訪れるということにはならない.
また,バス利用で通過するだけの人,バスや車などで新横浜に来る/帰る人もいるだろう.

横浜市のデータに,
少し古いが2001年の新横浜従業者数と,新横浜の労働人口があった.
   
2001の新横浜人口 4,797人(A)
新横浜で働く人 38,903人(B)
新横浜に住む労働人口 2,228人(C)

新横浜に住み,新横浜で働く人もいるだろうし,新横浜の外に通学や買い物で出かける人もいる.
平日に新横浜に通勤でない用事で来る人もいると考えられるし,各ホテルに宿泊するだけの人もいる.
よっておそらく2003年時点で平日の昼間に新横浜にいる人の数は,(B)を根拠に,
40,000〜45,000人
と考えてよいのではないか.

さらに4年経った2007年現在では,50,000人を超えているのではないかと考えられる。

休日については,住民+休日働く人+新横浜に用事で来る人−新横浜から外へ出かける住人
ということになるが,これは集客力のある施設(スタジアムやアリーナ)でのイベントの有無に,
大きく左右されるであろう.
実感としては大きなイベントがなければ平日の人口のほうが多く感じるが,
最近はイケアなどもできたし,駅ビルやWINSも稼動すれば休日昼間人口も
一段と増加するのではないか.

ところで,FIFAワールドカップ日本代表戦,決勝戦のときは,
おそらく100,000人以上が新横浜にいたであろう.



最後のほうはとりとめのない,ただの推測になってしまったが,以上.



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(補足)
このページのグラフ作成にあたっては,まず, 横浜市統計ポータルサイトのデータをExcelファイルにまとめた.
雰囲気だけだが↓このような感じ.


これだとさすがにまだ町の数が多いので,さらに丁目をすべて束ねたり,大きな旧町行政区分ごとに束ねたりした.
これも雰囲気だけだが↓このような感じ.




以上.



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<新横浜周辺の学校の歴史> ※新横浜町内に小・中・高等学校は無い
1893年  月 旧新羽小学校と吉田小学校合併で都筑郡新田村立 尋常新田小学校創立 後に高等科併置など経て1947年現・新田小学校
1900年 6月 橘樹郡城郷村立 高等小学校創立 後に城郷尋常高等小学校,城郷国民学校など改称を経て1947年に現・城郷小学校
1908年  月 高木学園女子高等学校創立
1942年  月 武相中学校(旧制)創立 1945年空襲で富士塚校舎焼失 1948年に武相高等学校設置
1949年 4月 横浜市立 大綱中学校創立
1951年 4月 横浜市立 菊名小学校創立
1958年 4月 横浜市立 港北小学校篠原分校できる
1961年 4月 横浜市立 篠原小学校創立(港北小学校より独立)
1969年 4月 神奈川県立港北高等学校創立
1969年 4月 横浜市立 城郷西小学校創立
1972年 4月 横浜市立 篠原中学校創立(大綱中学校より独立)
1976年 4月 横浜市立 太尾小学校創立(大綱小学校より独立)
1977年 4月 神奈川県立新羽高等学校創立
1977年 4月 横浜市立 新羽小学校創立
1978年 4月 横浜市立 新羽中学校創立
1978年 4月 横浜市立 大豆戸小学校創立(太尾小学校より独立)
1983年 4月 横浜市立 小机小学校創立
1983年 4月 神奈川県立岸根高等学校創立

なお,
よこはままち年表によると平成17年(2005年)に「新横浜中学校」開校とあるが,
これは青森県横浜町(下北半島)にできたものである。新・横浜中学校であり,新横浜・中学校ではない.



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<周辺地名の由来>
港北区HP町名の遍歴・由来妙蓮寺探検隊,などに詳しい.

新横浜=新幹線新横浜駅前だったため
鳥山 =水田の間に少しばかりの陸地が島のようにある地形から島の旧字「嶋」を分解したもの
篠原 =加賀国篠原での合戦で木曽義仲に敗れた平維盛が落ち延びて村を作ったとき篠原村と名付けた説有.
岸根 =沼岸に沿った丘陵の裾野
新羽 =山の端
大豆戸=不明.古書に「小机大豆津」の記載有り.埼玉県比企郡に大豆戸(読み:まめど)という町有り
太尾 =動物の太い尻尾が突き出したように見える山の形(※2007/11から順次大倉山に変更,2009年に消滅)
大倉山=実業家大倉邦彦が大倉精神文化研究所を設立,東急線駅名が大倉山となり,この駅周辺がそう呼ばれるようになった
樽町 =樽は渓谷が段を成していて雨時に滝となる所
綱島 =川の中州や湿地に浮かぶ島
吉田 =葦(よし)の生い茂る場所
大曽根=山や丘陵が大きく突き出したところ
箕輪 =箕のように丸く突き出した丘陵
師岡 =丘の並んだ地形
妙蓮寺=蓮光寺と妙仙寺が合併してできた妙蓮寺による



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