HISTORY of 鴨まん 新横浜に新名物を!2004年4月「新横浜パフォーマンス実行委員会」にて【鴨まん】を考案。その昔、この新横浜周辺の鶴見川に猟場があり(現在の第3京浜港北IC辺り)、皇室の方々がよく鴨を撃ちに来られていたことにちなんで「鴨まん」と命名。 その後【鴨まん】は、半年間の試行錯誤を経て2004年秋に完成!デビューの2004年10月新横浜パフォーマンス2004にて2,000個を完売!!その後も、地元のサッカーチームである横浜F・マリノスのホームゲーム開催時やTOYOTAカップ、サッカー日本代表戦などの際に、新横浜の街角にて露天販売!またスタジアムで毎月開催される大型フリーマーケットなどにもコツコツ出店し、新横浜パフォーマンス2005、2006でも共に2,000個を完売。販売累計・・・1万5千個UP!(2007年4月時点) |
「鴨まん」いけるカモ 2006年1月31日 新横浜(横浜市港北区)の町内会が、名物の食べ物を売りだそうと盛り上がっている。自慢の一品は、近くの鶴見川流域にあった鴨(かも)場にちなんだ「鴨まん」。 鴨まんは、小麦粉などを練った皮の中にカモ肉と野菜をつめて蒸した中華まん。直径約15センチで300円。カモ肉独特の香りと通常の肉まんよりも歯ごたえがあるのが特徴だ。地元の新横浜町内会が不定期で売り出している。29日、日産スタジアムであった横浜F・マリノスのイベントでは500個が完売した。 町内会が、新横浜には際だった名物がないとして、名産品づくりに思いを募らせたのは15年ほども前という。3年後の横浜港開港150周年を控えて町内会の動きが盛り上がり、3年前に開発が始まった。新幹線が停車するJR新横浜駅、立ち並ぶオフィス群、02年W杯の決勝の地……。 先進的なイメージが強い新横浜だが、町内会はカモを使った商品を思い立った。町内会の金子副会長は「意外かもしれないけれど、鶴見川流域にはカモがいる。そんな自然や歴史も知ってほしかった」。 実際、第三京浜の建設前までは、港北IC付近の鶴見川流域に鴨場があったという。現在も川周辺の遊水池では、カモやアオサギなどの野鳥が見られる。 町内会に加盟するフランス料理店やそば店など、カモを扱う専門家も開発に参加した。「カモ肉独特のにおいを抑えるために」とゴボウを入れた。試食を繰り返し、04年から売り出し始めた。金子さんは「約400社が加盟する町内会のつながりを集めてできた自慢の一品」とほほ笑む。 Jリーグの試合時など、売り出す頻度も次第に増えている。08年には駅ビルが新しく完成する新横浜。 金子さんは「ビルの中で常時発売を目指したい」と話す。 |
「川向の東寄りに鶴見川の一支流江川の水をひいて作った鴨の猟場があった(昭和3年から35年)が、環境の変化にともなってなくなった。」 |
「昭和に入ると、飛行場建設のため、羽田にあった鴨場が川向に移ることになりました。昭和3年(1928)より2年がかりで水田に造られました。当時としては珍しかった自動車を5、6台も連ね、貴族や軍人が訪れ、引き堀の両側に立って手網で生け捕り、鴨猟を楽しみました。長い間楽しまれた鴨場も、第三京浜国道港北インターチェンジの工事のため、昭和36年(1961)に閉鎖されてしまいました(手網を持った御婦人の写真付き)。」 |
鴨猟場にも都市化の波 第三京浜の港北インタチェンジのところに、20数年前まで鴨の猟場があったことをご存知だろうか。(中略) 鴨猟というと、飛び立った鴨を猟銃で撃ち落とすものだと思いがちだが、ここで行われていた鴨猟は銃を使わない。鴨場猟という江戸時代から伝わる猟法で、昔は大名の遊びだったという。(中略) まず鴨池の周囲に作られた引き掘にアヒルをおとりにして鴨を誘い込む。鴨の群れが引き堀に入ったところで堀の入り口を閉じる。これを合図に両岸で待機していた猟者たちは一斉に叉手網(さであみ)とよばれる大きな網で鴨をすくいとる。何とものんびりした猟法だ。まるで虫でも捕るように鴨を捕る。いかにも大名が考え出しそうなことだ。 ただ、いつやってもうまくいくというわけにはなかなかいかず、風向きなど気象の条件で絶好の日は年に三日ほどしかない。捕れない日の方がずっと多いのだ。 ここに鴨場が作られたのは昭和五年の秋のこと。当時は貴族院議員や 大会社の重役など上流階級の遊びだった。それが戦後は会社の接待に使われることが多くなり、同好の士が楽しむという風情は失われてしまった。愛好者の減少、周辺の都市化などの激しい時代の移り変わりには勝てず、昭和三十六年に鴨場は閉じられた。その四年後には第三京浜がこの土地をかすめるようになった。 |