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新横浜名物「鴨まん」調査


(2008年6月28日追記)新横浜駅売店で鴨まんの販売がスタートしました.
鴨まん公式サイト(http://kamo-man.com/)がオープンしています.



新横浜の名物「鴨まん」についての調査です.
2004年の新横浜パフォーマンスで初登場し,新横浜の名物として定着してきた「鴨まん」について,
その由来となった「港北IC付近にあった鴨場」の場所の変遷を追いました.

鴨まんと,その販売風景





鴨まんに関する情報
 まず新横浜パフォーマンス公式サイトでの紹介ページの記述を引用させていただきます.

HISTORY of 鴨まん
 新横浜に新名物を!2004年4月「新横浜パフォーマンス実行委員会」にて【鴨まん】を考案。その昔、この新横浜周辺の鶴見川に猟場があり(現在の第3京浜港北IC辺り)、皇室の方々がよく鴨を撃ちに来られていたことにちなんで「鴨まん」と命名。
 その後【鴨まん】は、半年間の試行錯誤を経て2004年秋に完成!デビューの2004年10月新横浜パフォーマンス2004にて2,000個を完売!!その後も、地元のサッカーチームである横浜F・マリノスのホームゲーム開催時やTOYOTAカップ、サッカー日本代表戦などの際に、新横浜の街角にて露天販売!またスタジアムで毎月開催される大型フリーマーケットなどにもコツコツ出店し、新横浜パフォーマンス2005、2006でも共に2,000個を完売。販売累計・・・1万5千個UP!(2007年4月時点)

 さらに,過去にアサヒコム・マイタウン神奈川版に掲載された,新横浜町内会副会長さんのインタビュー記事があります.引用させて頂きます.

「鴨まん」いけるカモ
2006年1月31日
 新横浜(横浜市港北区)の町内会が、名物の食べ物を売りだそうと盛り上がっている。自慢の一品は、近くの鶴見川流域にあった鴨(かも)場にちなんだ「鴨まん」。

 鴨まんは、小麦粉などを練った皮の中にカモ肉と野菜をつめて蒸した中華まん。直径約15センチで300円。カモ肉独特の香りと通常の肉まんよりも歯ごたえがあるのが特徴だ。地元の新横浜町内会が不定期で売り出している。29日、日産スタジアムであった横浜F・マリノスのイベントでは500個が完売した。

 町内会が、新横浜には際だった名物がないとして、名産品づくりに思いを募らせたのは15年ほども前という。3年後の横浜港開港150周年を控えて町内会の動きが盛り上がり、3年前に開発が始まった。新幹線が停車するJR新横浜駅、立ち並ぶオフィス群、02年W杯の決勝の地……。

 先進的なイメージが強い新横浜だが、町内会はカモを使った商品を思い立った。町内会の金子副会長は「意外かもしれないけれど、鶴見川流域にはカモがいる。そんな自然や歴史も知ってほしかった」。

 実際、第三京浜の建設前までは、港北IC付近の鶴見川流域に鴨場があったという。現在も川周辺の遊水池では、カモやアオサギなどの野鳥が見られる。

 町内会に加盟するフランス料理店やそば店など、カモを扱う専門家も開発に参加した。「カモ肉独特のにおいを抑えるために」とゴボウを入れた。試食を繰り返し、04年から売り出し始めた。金子さんは「約400社が加盟する町内会のつながりを集めてできた自慢の一品」とほほ笑む。

 Jリーグの試合時など、売り出す頻度も次第に増えている。08年には駅ビルが新しく完成する新横浜。

 金子さんは「ビルの中で常時発売を目指したい」と話す。

 その他,「【三九堂】都筑の民族/横浜市・港北ニュータウン郷土詩」P.215に,以下のような記述があるという情報を,都筑区在住のqz416様よりご提供頂きました.

「川向の東寄りに鶴見川の一支流江川の水をひいて作った鴨の猟場があった(昭和3年から35年)が、環境の変化にともなってなくなった。」

 同じくqz416様より,都田小学校の創立百周年記念誌『都田』(平成7年11月発行)による記載をご提供頂きました.

「昭和に入ると、飛行場建設のため、羽田にあった鴨場が川向に移ることになりました。昭和3年(1928)より2年がかりで水田に造られました。当時としては珍しかった自動車を5、6台も連ね、貴族や軍人が訪れ、引き堀の両側に立って手網で生け捕り、鴨猟を楽しみました。長い間楽しまれた鴨場も、第三京浜国道港北インターチェンジの工事のため、昭和36年(1961)に閉鎖されてしまいました(手網を持った御婦人の写真付き)。」

  また,1989年出版の,神奈川県県立高校の副教材である「かながわの川」(神奈川県高等学校教科研究会 社会科部会地理分科会編)P.88にもこの鴨場の変遷を記載した項目があります.

鴨猟場にも都市化の波

 第三京浜の港北インタチェンジのところに、20数年前まで鴨の猟場があったことをご存知だろうか。(中略)
 鴨猟というと、飛び立った鴨を猟銃で撃ち落とすものだと思いがちだが、ここで行われていた鴨猟は銃を使わない。鴨場猟という江戸時代から伝わる猟法で、昔は大名の遊びだったという。(中略)
 まず鴨池の周囲に作られた引き掘にアヒルをおとりにして鴨を誘い込む。鴨の群れが引き堀に入ったところで堀の入り口を閉じる。これを合図に両岸で待機していた猟者たちは一斉に叉手網(さであみ)とよばれる大きな網で鴨をすくいとる。何とものんびりした猟法だ。まるで虫でも捕るように鴨を捕る。いかにも大名が考え出しそうなことだ。
 ただ、いつやってもうまくいくというわけにはなかなかいかず、風向きなど気象の条件で絶好の日は年に三日ほどしかない。捕れない日の方がずっと多いのだ。
 ここに鴨場が作られたのは昭和五年の秋のこと。当時は貴族院議員や 大会社の重役など上流階級の遊びだった。それが戦後は会社の接待に使われることが多くなり、同好の士が楽しむという風情は失われてしまった。愛好者の減少、周辺の都市化などの激しい時代の移り変わりには勝てず、昭和三十六年に鴨場は閉じられた。その四年後には第三京浜がこの土地をかすめるようになった。




 さてここまでが前置きでした.上記の記述で,鴨まんを食べたことのある方も無い方も,だいたいその開発経緯や,由来となった鴨場の当時の様子についてお判りいただけたかと思います.

 ところで,qz416様に頂いた情報もふまえて咀嚼すると,「実はこの鴨場は羽田にあった鴨場のひとつが移転した民間経営で軍人や華族(貴族院議員),大会社の重役などが利用しており,皇族が来られていたわけではなかった」「鴨猟の方式としては猟銃で撃つのではなく,掘割の土手両側に待機して”サデ網”を振り,事前に鷹匠がエサで集めたカモが飛び立つ所を捕獲する遊びだった」という様なことなどがわかりました.




鴨まんの由来となった鴨場の場所変遷
 上記記述の中に現れる「第三京浜開通前まで港北ICあたりに存在した鴨場」については,横浜市三千分一地形図のサイトで川向(昭和16年)と新羽(昭和17年)の地図に跨って「鴨猟場」が記載されていました.
 それらをやや強引に切り貼りしたのが下になります.


横浜市三千分の1地形図より作成

 地図中央上寄りにある長方形の区画が「鴨猟場」です.手元にある,明治14年(1881年)の「第一軍管地方二万分一迅速測図原図復刻版」という地図(ららぽーと横浜の「紀伊國屋書店」などで入手可)にはこの「鴨猟場」は記載されていません.文献情報を総合すると,昭和3年(1928年に作り始め,)昭和5年(1930年)秋にできたことになります.
 地図下の方に描かれた蛇行した川は鶴見川です.この地図の更に下(南)の方には,すでに横浜線があり,小机駅も記載されています.
 地図上端で横に走る水路は,左(西)の方へ上ると第三京浜をくぐって新開橋の架かるところへ繋がる,今も存在する江川です.

 更に,第三京浜開通前後の,当該地域の写真が以下になります.まずは1961年.記録によればちょうど鴨場閉鎖の時期ですが,まだほとんど原型をとどめています.


国土地理院国土変遷アーカイブより作成

 そして,第三京浜が開通した翌年の1965年です.


国土地理院国土変遷アーカイブより作成

 写真左(西)側に忽然と現れた,縦に走る道路が第三京浜です.そして上寄りに見えるのが港北ICです.(2007年現在まで流入出路は変化しません.)やはり第三京浜によって鴨猟場は削り取られてしまいましたが,敷地右(東)側は残っているようです.

 さらに1971年頃の写真まではこの状態ですが,1974年の写真は以下の通り大きな変化が見られます.


国土地理院国土変遷アーカイブより作成

 元・鴨猟場を三色旗のように左・中・右に分けるとすれば,左は港北IC,中は株式会社ヤナセの横浜ニューデポーになりました.ヤナセは港北ICの左(西)側=写真外の現イケヤのところに横浜デポーをすでに開設していました(1965年)が,横浜ニューデポーが1974年に開設され,それが鴨猟場の中部分にあたるということになります.(なお2004年にこの横浜ニューデポーはリニューアルされており,2007年現存する.)
 このニューデポーの,北(上)の建物は,屋根に「Mercedes-Benz/メルセデス・ベンツ」の広告文字が読み取れます.
 鴨猟場の右側三分の一はまだ原型に近い状態で,新たに木造建築物と思われるものが確認できます.

 下の写真は,2004年.つまりほぼ現在の状態の写真です.


国土地理院国土変遷アーカイブより作成

 更に緑を保っている部分は減りましたが,右端にはわずかに面影を残した区画が残っているようです.

 下は,この部分の現在の地図です.鴨猟場の面影を残す右(東)側の住所は,横浜市都筑区川向町1140番台〜50番台くらいということになります.



 なおこの地図と,ひとつ上の写真を照らし合わせるとわかりますが,右下に見えるのは新横浜公園の西の端です.



 以下の写真は,鴨猟場の面影を残す区画の様子です.


左:鴨場跡地西側.港北ICの流入出路にあたる.
右:鴨場跡地南側の道路.ほとんど塞がれているが,鴨場に水を引いていた水路の痕跡がある.


左:鴨場跡地中央部の南側から.ヤナセ横浜ニューデポー.敷地は北側の江川まで広がる.
右:鴨場跡地東側.大きなお屋敷(民家)が数件立ち並ぶ.何となく面影を残す立派な塀と庭木.




鴨まんについてその他
 新横浜パフォーマンスなどに登場する鴨まん屋台の看板は,新横浜で書道教室を開かれている.廣川陽煌(ひろかわようこう)先生の筆だそうです.この先生は,新横浜パフォーマンス2007のノボリ,「黒船祭」の文字も書かれた方です.









鴨まんが誕生する前の時点では,新横浜名物として「鴨ンドッグ」を販売することも検討されていたという情報を入手しました.
    





 新横浜町内会では上述のように,将来新横浜の新駅ビルなどで鴨まんを常時販売できることを目標としているようですが,実現したらうれしいですね.そのウワサが新幹線を伝って瞬く間に全国に広がることを考えるとワクワクします.












 調査は以上ですが,一度は食べたことのある鴨まんも,ここで調べたような無駄知識を得た上でもう一度食べてみると,また美味さもひとしお  「カモ」しれません.  (ベタで…)




※なお本ページ(非営利)で掲載している航空写真は,国土地理院の測量成果物の利用に関するガイドラインに基づき,出典を明記することで利用を行っています.





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