back to index / back to 新横浜周辺の歴史
新横浜の古い地図

 現在までに入手できている新横浜の古い地図(復刻版等),および古い地図資料からトレーシングした地図情報を元に,
 同じ表記方法で地図を作り直し,年代ごとに並べてみました.現代から時代を逆に遡ります(その方が説明し易いため).

 まずこれが現代の地図.区画整理は1964年着工1975年完了で,そこからは横浜アリーナを作ったりプリンスホテルを作ったりするための区画統合・廃道などもありましたが,概ね1975年区画整理後は変化が無いと考えてよいと思います.ここから時代を遡りますが,新幹線などはこれより昔の地図では無くなってしまいますので,主に以下のものを目印として下さい.
【又口橋】地図左上端/【鶴見川・鳥山川合流部】/【現・太尾新道】地図右端/【新幹線南側の旧道および坊海道】.
【横浜線】/【杉山神社】/【正覚院】 など.さてそれでは今から,時代を遡り始めます.




↓   ↓   ↓   ↓   ↓





 1963年は区画整理の着工前年,新幹線開通前年になります.新横浜駅は建設中.現・新横浜町内は碁盤の目に区画されていますが,これは現在の道路ではなく農道です.現1丁目はまだぐにゃぐにゃした道しか無いみたいです.「このあと環状2号線になるっぽい農道」が存在します.もちろん民家など1件も表記がありませんが,実は左端の又口橋付近に奈良建設の前身,日本機械土木KKの敷地があります.
 鳥山川と鶴見川の合流の仕方は今と同じですが,現新横浜町内に,まだ何本かの用水路が見られます.ワールドカップ大橋あたりで,切断されたばかりの旧鳥山川の残骸があります.旧鳥山川は他の用水路と合流して,太尾新道を北上して,新羽橋付近でやっと鶴見川に合流していました.この旧鳥山川と分岐して,アリーナの裏,現在の新横浜中央通りの場所に,現・3丁目と2丁目を貫いて横浜線に突き当たる用水路が見られます.
 地図の右下の,現・Room's大正堂あたりにも2本の用水路がきていますが,坂下(セブンイレブン付近)を通って菊名方面に折れているのは,大豆戸菊名用水路=大豆戸根川=いわゆる菊名川でした.今も残る菊名池に繋がっていました.もう1本,新幹線の駅南側へ回りこんでいる用水路もありますが,これは新幹線ガード脇に今も存在します.




↓   ↓   ↓   ↓   ↓





 1955年のこの地図は,一つ上の1963年の「農道碁盤の目」状態に至るまでの過渡期のようなイメージです.新幹線は当然無く,横浜線も駅が無くて通過しているだけの土地です.
 道路では,環状2号線に当たるものが存在していません.アリーナの奥や,1丁目など,整理されていない状態の道路です.
 鳥山川は古い流路です.現1丁目(左)の方から右に流れてきて,現在のように鶴見川に合流するのではなく南東(地図下方)へ少し湾曲し,横浜アリーナの裏(現HANZOYA辺り)を通り,現・太尾堤緑道の位置を流れていました.なお地図右下へ行く「菊名川」が存在しないことになっていますが,これより旧い地図でも新しい地図でも描かれているので,この地図の表記がいい加減なだけだと思われます.




↓   ↓   ↓   ↓   ↓





 戦後間もない1946年の地図ですが,随分と区画が退行しました.上の1955年地図と見比べると,この46年頃の道路が55年まで少し残っているのがわかります.もっと後でわかるのですが,かなり概略的に描かれた地図だと考えられます.




↓   ↓   ↓   ↓   ↓





 1942年,港北区はまだ3歳の戦時中の地図になります.1946年とはほとんど変わらないはずなのですが,これは原地図縮尺が1/3000,1946年の方は原地図縮尺が1/25000なので,多分こちらの方が精確だと思います.土地用途や地名なども記載されていますので,描き入れてみました.
 現在のJRAウインズ〜ラーメン博物館〜アイススケートセンターあたり一帯は,「荒地」という表示になっていますが,イメージは湿地だと推定されます.その荒地の一角,ちょうど現新横浜アイススケートセンターと新横浜プリンスインドアテニスコート跡地にまたがって「養蛙場(ようあじょう)」がありました.これは以前も「新横浜の旧地名」という記事の中で書いた様に,戦時中の貴重なたんぱく源としての食用ガエルをここで育てていたのだと考えられます.
 それ以外,新横浜ほぼ全域は「田」の表記になっていますが,鶴見川の洪水で始終浸水していた地域でもあり,特に鳥山川沿いなどは毎年安定的に作付けや収穫が行われていたかどうかは疑われる感じです.




↓   ↓   ↓   ↓   ↓





 1935年の地図です.一帯が神奈川区に属した時期です.これまたシンプルな地図になってしまいました.このころは航空写真というものが無いので,もはや地図のみの情報しかありません.1942年の地図より1946年の地図に近いので,もしかするとかなりあいまいな上,46年の地図作成にはこの地図を参考にした可能性が高いと考えられます.
 まあ,田畑と湿地ばかりで人の住まない土地なので,あまり精密に描こうという意識は無かったのかもしれません.
 ところで,まだ高架化されていないはずの横浜線の線路を,道が平気で貫いていますが,簡単な踏切があったか,あるいは通行者が勝手に線路を踏み切っていたかだと考えられます.




↓   ↓   ↓   ↓   ↓





 1929年の地図です.一帯が神奈川区に属した時期です.かなり1935年および1946年の地図と似ていますので,パクリのルーツはこの地図かもしれません.1942年の三千分の一縮尺地図は割と精確な方だと考えられますので,だとすると1946年はすごくいい加減ということになります.
 これらの地図,似通っていながら少しずつ道がずれたりしているのですが,自分のトレーシングが適当だからなのか,地図を描いた人が割といい加減だったからなのか,あるいは時折崩れてしまうあぜを直し直ししているうちに本当にずれてきてしまったからなのか,今となっては知る由もありません.
 この頃の篠原町側の地図を,集落分布も含めてしっかり比較して考察すると,立派な研究ネタになりそうですが,本ページはあくまで現・新横浜町内側に限ってダラダラと調べています.




↓   ↓   ↓   ↓   ↓





 これも同じく1929年の地図です.もう一つの,明報堂版の1929年地図とほとんど同じです.坂下(地図右下)や,又口橋周辺(地図左上)の描き方がやや異なっていますが,概ねこれが当時の実際の姿だと考えて間違いなさそうです.




↓   ↓   ↓   ↓   ↓





 ぐっと遡って明治14年,1881年の地図です.新横浜地域は橘樹郡に編成されていた頃です.さすがの横浜線も,まだ影も形もありません.岸根交差点〜又口橋〜小机と繋がる現・上麻生線も走っていません.
 この地図には「水田」「畑」などの表記がちらほら記載されていましたので,ようやく「この頃から田んぼがあった」ことが確認できました.
 あぜ道(原図では点線)がかなり高濃度で描かれていて,1929年のものと割と似ていますので,基本的にはこの頃から1950年代まであまり変化していないということだと思います.しかし,坂下から太尾への道(現・太尾新道),現・新幹線南側の旧道,坊海道などは,明治の昔から確かにちゃんとあったのですね.感心してしまいました.
 それから,坂下から菊名を抜けて菊名池に通じる用水は描かれていませんが,菊名池はちゃんとこの時代の地図にも存在しています.










年代名称閲覧・入手が可能な場所
1881明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図日本地図センター発行,各書店等
1929復刻古地図・大横濱市交通地図人文社,各書店等
1929横濱都市計画地域図明報堂,横浜都市発展記念館所蔵
1935最新実測番地入新大横濱全図日本地理附図研究所
1942横浜市三千分の一地形図[岸根]横浜市土木局,リンク
1946横濱市街図神奈川新聞社,横浜都市発展記念館所蔵
1955港北区全図横浜市建設局・港北区役所,横浜都市発展記念館所蔵
1963横浜市三千分の一地形図[篠原]横浜市まちづくり調整局,,リンク


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

back to index / back to 新横浜周辺の歴史