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新横浜周辺の歴史

以下の年表・記述は,現地調査,文献調査,ネットでの聞取り調査以外にも,
横浜市港北区HPの歴史概要大倉精神文化研究所横浜市のあゆみWikipedia/港北区
Wikipedia/新横浜駅京浜河川事務所妙蓮寺探検隊ほっくほく港北
などを引用・要約作成したものです(ありがとうございます).

縄文時代 前期 花見山遺跡(川和高校東側).この頃の海面は現在より約3m高かったと考えられている.
縄文時代 中期 大塚・歳勝土遺跡(港北ニュータウン歴史博物館の場所).海面が現在の高さになる.

縄文時代想像地図を見る.

新横浜あたりは鶴見川が運んだ泥,沖積層の上にできた平野であり,入り江はもっと陸側に,
入り込んでいたと考えられている.
鶴見川河口は現在の都筑区川和町あたりで,綱島,新横浜は海底,篠原と小机は古小机湾の内側に面した陸地.
古小机湾を挟むように日吉と末吉が半島状に存在したようである。
縄文中期,紀元前5000年頃から,徐々に沖積地が拡大し海岸線が後退したものと考えられている.
なお,多摩川も同様で河口は現在の溝の口あたりにあり,川崎市街,羽田,大森も当時は古多摩湾の底だったようだ.
陸地化した後もしばらく,鶴見川は湿地帯を蛇行し,頻繁に流路を変える状態であった.

0686年  月 新横浜近辺は武蔵国橘樹郡(たちばな)に属された.歴史上一時的に,小机村付近が都筑郡に属した説有.
08世紀   頃 関東における熊野信仰の拠点,師岡熊野神社が建てられる
0949年  月 師岡熊野神社の筒粥神事始まる(2007年は第1058回目)
1183年  月 篠原の合戦(加賀国)で木曽義仲に敗れた平維盛が落ち延びて村を作ったとき,篠原村と名付けた説有.
1239年 2月 佐々木泰綱が小机郷開発任命される.「吾妻鏡」記載<武蔵国小机郷鳥山等,荒野可開発水田之由,被仰大夫尉泰綱>.
13世紀   頃 小机城(現・小机城跡)が築かれる
1321年  月 泉谷寺(小机)開創

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時期は不明であるが,小机城の支城として「金子城」(または篠原城)が築かれたのもこの頃であると考えられている.
位置は今の正覚院の裏手であり,市の管理地として今も奇跡的な良好さで城郭が保存されている.
金子城は戦国時代に後北条氏の北条景虎の家臣,金子出雲守の居城であった.
金子出雲守あるいはその先祖の金子家忠いずれかが築城したという説があるらしい.
武蔵七党・村山党の金子家忠は,保元・平治の乱で活躍し,源頼朝や源義経にも仕え,埼玉県入間市にその本拠地があって,
今でも金子丘陵に金子神社,金子坂などが残るゆかりの地で,入間市金子中央という地名も現存する.

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新横浜駅の辺りはこの当時から,小机・岸根・太尾・篠原に囲まれた湿地および田園地帯だったと考えられている.
1976年の堤防決壊まで,度々の鶴見川氾濫に悩まされている.
高低差が少なく満潮時は太尾橋付近まで潮が逆流するため,川の水が農業用水として使えなかった.
下流右岸は谷戸に溜池をつくり,左岸は多摩川の水を二ヶ領用水として潮田、小田、渡田まで網の目のように配し,
米作りをしていたが,洪水により度々冠水し,年貢減免願の連続で,「太尾には嫁にやるな」と言い伝えがある程だった.
亀甲橋は昭和初期まで,大水で流されることを想定された土橋であり,実際に幾度と無く流されたようである.
反面,洪水が肥沃な土地を作り、果樹、野菜の産出には恵まれた.潮の逆流により水運が発達した.

1487年  月 長尾景春の謀反(小机の合戦),家臣の矢野兵庫助が,大田道灌に対峙し小机城に立篭もる
1489年  月 亀甲山=亀甲橋北側付近に陣を張った扇谷上杉氏の大田道灌が小机城を攻め落とし,廃城.

小机城を攻めるときに,太田道灌が亀甲山の陣で,士気高揚のために詠んだ歌が残されている.

小机は まず手習いのはじめにて いろはにほへと ちりぢりとなる (結句は「あとはちりぢり」の説有.)
=小さな机というのは,字の練習を始めるときに使うものだから,「いろはにほへと」を書くように戦いも簡単に終わるだろう.
 または,
=小さな机で習字をするのは子供であり,「いろはにほへと」までは書けるがあとはメチャクチャなはず.敵は子供のようなもの.
 と解釈されている.
大田道灌は1457年に江戸城を築いたことで有名である.
幼少期の逸話で,父「障子はまっすぐだから立っていられる」道灌「屏風は曲がっているから立っている」
父「おごるもの久しからず」道灌「おごらざるものも久しからず」等と口答えし怒らせた等がある.
この道灌が,亀甲山の陣から小机城を見据えた時の自陣左翼前方に現在あるのが,日産スタジアムである.

小机の合戦 布陣想像図を見る.

1524年  月 小田原北条氏の家臣笠原越前守信為が小机城代として配される
1525年  月 臥龍山雲松院,笠原信為が亡父能登守信隆を追善するため開山
1590年  月 小田原の役で小机城が再び落城,徳川氏家臣弥次平衛重政が一時入城するもその後廃城.

江戸の初期 頃
鳥山川の利用をめぐって寛永年間以降,上流と下流の村々の間で,絶えず訴訟があったという記録が残る.
現新横浜は有史以来相変わらず無人で,鳥山,小机,岸根,篠原,大豆戸,太尾など
周辺の村々の農家が所有する田畑であった.
下菅田,鳥山,小机,岸根,篠原の各村は,鳥山川を悪水路(排水路)として利用していた一方,
大豆戸,太尾,大曽根,樽の各村は用水としての利用を切望していたための争いであった.

江戸の中期 頃
港北区域は,矢上村(日吉一〜七丁目),篠原村,岸根村,を除き,大半が御捉飼場に指定されていた.
江戸の雑司ヶ谷から,鷹匠が年に四、五回やって来て鷹を訓練するだけだったが,
地域有力農民が「野廻り」という役人に任命され,禁猟など厳しく地域を管理した.

1748年  月 金剛寺(小机村),創建
1753年  月 臥龍山雲松院,本堂建立
1786年  月 金剛寺が,雲松院の19世大継良大和尚により曹洞宗寺院として開山
1809年 1月 大田南畝、小机のそうめん作りを見学(この頃,そうめん作りが盛ん)
1819年  月 本法寺が小机に移転(1539年,綱島太郎発願で綱島に創立されたが鶴見川氾濫で度々流されたため)

1830年  頃
鶴見川の洪水改善のため、鶴見川を神奈川にバイパスする幕府の計画.詳細は不明.
小机東部の大曲付近〜篠原小谷口〜白幡村の中程〜西子安村方面に抜けるルートだったと推測されている.
白幡村民の反対嘆願書あり.実現には至らず.

鶴見川分水路想像図を見る.

1858年  月 臥龍山雲松院,山門造立
1868年  月 神奈川県(当初・神奈川府)設置

1870年  月 
南綱島と太尾の村民が「鶴見川通新川目見建白書」を神奈川県に提出.
新川分岐点から太尾橋までは廃川し農地に転用の計画..
新川ルートは,亀甲橋の少し下流から篠原坊ヶ谷〜篠原池〜六角橋溜池〜神奈川宿の瀧の橋に至る.
太尾橋より下流を「鶴見川」とし、鶴見川本流上流部を含めた新川の名称を「神奈川」とする二つの河川に分離.
鳥山川から用水を取っていた右岸の大豆戸ほか数ヶ村は、新羽用水からの分水できるメリットがあるが県の処理不明,立消え.

1873年  月 本法寺の寺子屋が小机学舎(現・城郷小学校)となる
1878年  月 郡区町村編制法により行政区画として橘樹郡に編成される

1887年  月
笈川新兵衛(後に新田村村長)が鶴見川分水路計画を神奈川県知事に提案
ルートは小机東部の大曲付近〜鳥山の飛地〜篠原〜六角橋〜神奈川飯田横町の小川(現・滝の川)経路で鶴見川をバイパス.
測量や設計まで進めつつあったが1903年笈川新兵衛の死により立消え.

1889年  月 市町村制施行で横浜市誕生するが周辺はまだ神奈川県橘樹郡であった.鳥山村他,8村が小机村に併合.
1892年 2月 小机村の旧小机村以外の住民が村名を不服とし,村議会協議の末,城郷村に改称

明治の中期 頃
幕末に開港した横浜が都市化し,現・港北区域がその供給地となる.
特産品は小机=苺 /菊名と篠原=大根 /太尾=玉葱 /大曽根=空豆 /樽(現・樽町)=小蕪 /綱島=桃
道路が整備される大正期までは,満潮時鶴見川河口から新羽橋の近くまで海水が遡行することを利用した水運が物資輸送の中心.
旧太尾橋や大綱橋近くにあった河岸を中心に商店街が形成された.

1908年 9月 私鉄「横浜鉄道」(現・横浜線)開通
横浜鉄道は,信州で盛んに生産された生糸を横浜港から輸出するため,八王子から東神奈川まで線路が作られた.
2年後の1910年には東神奈川駅から海神奈川貨物駅まで延伸されている.

1910年  月 鶴見川大洪水,これを機に鶴見川築堤が始まり1914年完成

この築堤のため立ち退きとなり,綱島へ移った加藤ジュンゾウという人が井戸を掘ったところ,ラジウム温泉が湧いた.
1926年に現・東横線開通以降,五島慶太(後の東急会長・運輸大臣;強引な企業買収手口で「強盗慶太」とも揶揄された.)
の推進で,綱島は温泉地として発展した.当時の駅名は「綱島温泉駅」で,「東京の奥座敷」「横浜の箱根」と呼ばれた.
第二次大戦中は一時,兵隊宿舎・軍需工場の寮などになったが,
戦後GHQによってRecreation and Amusement Association(保養慰安協会)に指定され再び温泉街が復活した.
その後,最盛期には温泉宿が約80軒,芸者約300人を抱えたが,1970年以降,急速に衰えた.
現在は創業昭和21年の「東京園」という浴場が残っている.ここは旅館時代,三橋美智也が温泉歌手として修行したところである.

1912年 −−
東京府と神奈川県橘樹郡の境があらためて多摩川に設定し直され,次の町域の各一部が移管する
  東京府より神奈川県橘樹郡へ:宿河原、久地、二子、諏訪河原、上平間、小向
  神奈川県橘樹郡より東京府へ:布田、和泉、宇奈根、瀬田、下野毛、等々力、下沼部、古市場、古川、雑色
なお等々力が現在のように,東京都世田谷区側と神奈川県中原区側へ行政区分が分かれてしまったのはこのときである.
もともとは多摩川の同じ側にあったものが,洪水で流路が変わり分断されてしまったものと思われる.

1912年  頃
丘陵の北側斜面を利用した天然氷の生産が盛んで,樽,大曽根,菊名,大豆戸,篠原で年間800トンを製造.
大曽根の三菱病院のあたりに「氷室」と呼ばれる土地がある

1917年10月 横浜鉄道国有化 横浜線となる
1923年 9月 関東大震災
震災で小机駅舎が倒壊 横浜線約1ヶ月不通.
篠原地区では,地盤の固い丘と低湿地帯との境(新横浜駅周辺か?)で液状化現象発生.
地震発生と同時に地割れを生じ,地下水が泥水となってピュッコ、ピュッコと,地面が開いて閉じるたびに吹き出していた
という記録あり

1925年 2月 二代目小机駅舎竣工
1926年 2月 東京横浜電鉄(現・東急)の神奈川線丸子多摩川〜神奈川間開通,太尾駅開業
1927年 4月 城郷村(旧小机村)が,鶴見町、旭村、大綱村、保土ヶ谷町と共に横浜市に編入される
1929年  月 金剛寺,焼失(現在の本堂は1985年再建)

1930年  月 川向鴨場が完成
港北ICの東側,川向町の現・ヤナセ横浜ニューデポーの位置に,鴨猟場ができた.
昭和36年(1961年)まで営業を続けている.
この鴨猟場が,新横浜パフォーマンスなどでおなじみの新横浜名物「鴨まん」誕生の由来である.
詳細は,鴨まん調査のページを参照されたい.

1932年 3月 東横線渋谷〜桜木町の全線開通に合わせ太尾駅が大倉山駅へ改称
1932年 4月 実業家・大倉邦彦が大倉山に大倉精神文化研究所(現・大倉山記念館)開所
1938年10月 全町村が川崎市・横浜市の一部となり,橘樹郡消滅
1939年 4月 港北区誕生

横浜市のサイトで公開されている戦時中の地形図から、現在の地図上に
当時の新横浜周辺の旧地名を重ねた.
1942年(昭和17年)の新横浜周辺地名を見る.

1945年 5月 横浜大空襲 太尾町300余戸の内60余戸が焼失との記録

1958年 9月 鶴見川大洪水
昭和に入ってからも鶴見川の氾濫はたびたび起こっており, 国土交通省河川整備基本方針の,
>鶴見川水系>鶴見川水系流域及び河川の概要(PDFファイル)でも,
1958年/1966年/1976年/1982年の4回の洪水の被害地域図が示されており,新横浜が冠水している.
各洪水の被害地域を先の縄文時代想像地図と重ねると非常によく一致していることがわかる.

縄文時代海岸線想像図と洪水被害地域図を見比べる.


1969年10月 区域西部が緑区として分区
1967年  月 鶴見川河川敷亀甲橋周辺ヨコハマナガゴミムシ(学名Pterostichus yokohama)発見される(絶滅危惧種)
1977年10月 小机城市民の森指定(港北区初)

1982年  頃
新横浜駅周辺で,局地的な地盤沈下が起こる.(他に,横浜駅72年頃,戸塚駅82年頃地盤沈下がある.)
鶴見川,入江川周辺,新横浜地区は沖積層が20〜50mと厚く堆積しており,
原因は地下掘削工事に伴う比較的浅い層からの地下水排除が主な原因と考えられている.
最近,たとえば2003年時点では,地盤沈下等量線図によれば,1年間の新横浜周辺地盤変化は±10mm以内と沈下は収まっているが,
当時の影響で「新横浜は地盤沈下する」という印象が今も残っている.
また,岩盤の固い篠原側に比べれば鶴見川流域の軟弱な沖積層であることに変わりは無く
諸々工事のたびに,地盤沈下の可能性が度々議論に上るようである.

1991年 5月 ハナミズキが港北区の木に指定,新横浜に街路樹としても植えられている
1993年  月 第1回小机城址祭り
1994年11月 都筑区が分区し今の港北区となる

港北ニュータウン開発により,かつて港北区に属していた都筑区部分は,1984年の人口2万6千人から,
わずか10年間で倍近い5万1千人と急激な発展を遂げる.このため,行政区分を分割し都筑区が生まれた.
なお1994年から2007年の間に人口が300人から8,000人へと激増した新横浜の急成長の様子についてはindexの年表に譲る.

1996年  月 鶴見川氾濫対策で全長8kmの地下巨大トンネル「小机千若雨水幹線」完成,神奈川下水処理場に出口がある
2003年 6月 鶴見川多目的遊水地運用開始

この地下トンネルと遊水地のおかげで,付近住民の永年(約800年?)にわたる夢であった鶴見川氾濫対策は
概ね達成されたといえるのではないだろうか.
2004年10月の台風で,遊水地が水に浸ってる様子が日産スタジアムのスタッフブログに写真つきで説明されている.
氾濫対策が概ね完了したとは言え,新横浜駅南側篠原口のロータリーは,この台風で冠水しており,
その様子は港北処理区新横浜駅前第二幹線下水道整備事業の公共事業事前評価調書に,
写真が掲載されている.




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<新横浜周辺の学校の歴史> ※新横浜町内に小・中・高等学校は無い
1893年  月 旧新羽小学校と吉田小学校合併で都筑郡新田村立 尋常新田小学校創立 後に高等科併置など経て1947年現・新田小学校
1900年 6月 橘樹郡城郷村立 高等小学校創立 後に城郷尋常高等小学校,城郷国民学校など改称を経て1947年に現・城郷小学校
1908年  月 高木学園女子高等学校創立
1942年  月 武相中学校(旧制)創立 1945年空襲で富士塚校舎焼失 1948年に武相高等学校設置
1949年 4月 横浜市立 大綱中学校創立
1951年 4月 横浜市立 菊名小学校創立
1958年 4月 横浜市立 港北小学校篠原分校できる
1961年 4月 横浜市立 篠原小学校創立(港北小学校より独立)
1969年 4月 神奈川県立港北高等学校創立
1969年 4月 横浜市立 篠原西小学校創立
1972年 4月 横浜市立 篠原中学校創立(大綱中学校より独立)
1976年 4月 横浜市立 太尾小学校創立(大綱小学校より独立)
1977年 4月 神奈川県立新羽高等学校創立
1977年 4月 横浜市立 新羽小学校創立
1978年 4月 横浜市立 新羽中学校創立
1978年 4月 横浜市立 大豆戸小学校創立(太尾小学校より独立)
1983年 4月 横浜市立 小机小学校創立
1983年 4月 神奈川県立岸根高等学校創立

なお,よこはままち年表によると平成17年(2005年)に「新横浜中学校」開校とあるが,
これは青森県横浜町(下北半島)にできたものである。新・横浜中学校であり,新横浜・中学校ではない.



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<周辺地名の由来>
港北区HP町名の遍歴・由来妙蓮寺探検隊ほっくほく港北, などに詳しい.
ここに示したのはあくまで一説であり,その解明にはなかなか熱い議論もあるようである.
菊名「川」物語 サイトでの議論にリンクを張らせていただくのでぜひ参照されたい.
太尾町が大倉山に変わる話もあるようだが,一企業がわりと勝手につける駅名と違い,
地名は伝統を持つものであるという意見もあり,一方では経済原則に従い「今の」住人にも
それを選択する一定の権利が無くはないという考え方もある.
新横浜=新幹線新横浜駅前だったため
鳥山 =水田の間に少しばかりの陸地が島のようにある地形から島の旧字「嶋」を分解したもの
篠原 =加賀国篠原での合戦で木曽義仲に敗れた平維盛が落ち延びて村を作ったとき篠原村と名付けた説有.
岸根 =沼岸に沿った丘陵の裾野
新羽 =山の端
大豆戸=不明.古書に「小机大豆津」の記載有り.埼玉県比企郡に大豆戸(読み:まめど)という町有り
太尾 =動物の太い尻尾が突き出したように見える山の形
樽町 =樽は渓谷が段を成していて雨時に滝となる所
綱島 =川の中州や湿地に浮かぶ島
吉田 =葦(よし)の生い茂る場所
大曽根=山や丘陵が大きく突き出したところ
箕輪 =箕のように丸く突き出した丘陵
師岡 =丘の並んだ地形
妙蓮寺=蓮光寺と妙仙寺が合併してできた妙蓮寺による

なお,更に細かく新横浜(篠原村内)は,
蛇袋 (じゃぶくろ :新横浜一丁目の西側)
勝負田(しょうぶた :新横浜一丁目と新横浜駅周辺)
道念前(どうねんまえ:プリンスホテル付近)
と呼ばれていたそうである.



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