back to index / back to 新横浜周辺の歴史
鶴見川分水路について
横浜市のサイトなどに記載されているように,
たびたびの洪水への対策として,
鶴見川そのものの改修以外に,いくつかの分水路計画があったようです.
この図の赤点線は,天保年間の幕府の計画図(池谷家所蔵とのこと)を現在の地図に重ねてみたものですが
さらに国土地理院の地形図に照らすと篠原台町など海抜30m以上の地点を通っており,
もしかすると「イメージ図」だったのではないかと推測されます.
一方,赤鎖線は1870年の計画に関する記述のとおり
小机大曲〜篠原池〜六角橋〜滝の川を結んでみたものですが,
こちらは比較的海抜の低い,現在の県道12号上麻生線にあたるルートとなっていて現実的です.
いずれにしろ計画では,横浜アリーナやプリンスペペや新横浜駅のある位置を通っており,
すなわちこれらの計画が実現していれば,新横浜三丁目は鶴見川新川により真っ二つに分断されていたはずです.
(というよりも,新川の河川敷になっていた.)
なお実際に1996年に完成した雨水トンネルは,
鴨居ポンプ場から県道12号上麻生線の下を通り,千若町の下水処理場に至るルートです.
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
back to index / back to 新横浜周辺の歴史